【レクチャー報告】「組立」対話企画 上田和彦 × 林道郎〈筆触・イメージ・身体〉前半

先月開催されたレクチャーの長めのメモ(?)を冒頭分だけ掲載します。

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■「組立」対話企画 
  上田和彦 × 林道郎〈筆触・イメージ・身体〉

  2009年4月4日(土)18:00〜 
  photographers' gallery 
  東京都新宿区新宿2丁目16-11-401(サンフタミビル4F)

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1.導入部


>上田和彦(以下上田):

●筆触のはじまりについて
 筆触の始まりとしては、カオスである自然を抽象化して捉えるということが考えられる。
 たとえば、セザンヌやアルトドルファーの作品では、極めて複雑な木々が描かれているのだが、木の葉がモデル化して描かれている。また、レオナルド・ダビンチによる水のモデル化された描写も、アナロギア(類比)の思想から捉えられているもので、抽象化の作例と言える。筆触は、この時代にはジュリオ・ロマーノにつらなる奇岩の系譜や衣服の襞などに見られるように、表に出るというよりは、描写に関わる一環としてささやかに画面に配されるものだった。

●筆触の潜在面/顕在面
 筆触には、潜在面と顕在面、すなわち、事後的に出てくるものと、見るその都度、現実として意識される部分がある。(前者はコンスタブル、後者はフラゴナール。)
 また、セザンヌも重要である。印象派というのが、絵画空間が崩壊寸前になるまで筆触分割を推し進めたのに抗して、自然を、プッサンを通して描きなおした。遠近法的な筆触の発展史は、セザンヌの時点で断絶しそうになっていた。

林道郎(以下林):

●近代と筆触
 絵画の基本単位として筆触があった点について、「絵画における近代」という問題を指摘したい。「筆触がある」というのは、われわれの近代の目が成立してしまっているからこそ成り立つ言いまわしである。
 筆触はそれまでにも存在していたともいえる。ヤン・ファン・アイクの画面が筆あとが見えないほど平滑だったのに対して、 ティントレットは、イリュージョンに解消できない荒いブラッシュが「未完成」と批判されたし、フラゴナールにも過剰なストロークが見られる。しかし、こうした作例でも基本的には、描写のなかでささやかに見える程度で、襞などを描写する欲望のために筆触が使用されていた。

●油絵の具の発明と光の強度を示す煌めきの筆触
 油絵の具が開発されたことも重要で、これはベラスケスの時代、1830年代頃のことだが、描写のパラダイム変更の要因となった。コンスタブルの作品では、白い絵の具が煌めくように置かれる。≪キオス島の虐殺≫においても、光の強度をいかに描写するかという問題の中で筆触が使用された。19世紀に入るとモネが現れ、こうした問題を受け継いでいる。

●個性の符丁としての筆触
 モネの筆触の問題は、「私」という問題でも重要だった。モネ以降、筆触は、特定の主体と重ねられて、サイン、すなわち個性の符丁として認識されるものとなる。
 ゴーギャンが、自作の背景の画中画としてセザンヌ風の斜めのストロークのコピーしたことについて、セザンヌは怒りを露わにし、「ムッシュゴーギャンは、私のちいさなサンサシオンを盗んだ。」と訴えた。「これは私の筆触なのだ」という筆触をめぐるこうした闘争が起こるほどに、筆触は負荷を負った個性の記号として重要なものとなった。


2.筆触における主体と客体の分裂と、描く主体の匿名性


上田:マイケル・フリードは、ミニマリズムの作品において主体と客体の分裂的生成が起こるとしたが、それは筆触を置いた主体/置かれた客体とも読める。筆触は、置かれると同時に客体として意識され、制作する主体との間に分裂が起こる。作家のシグネチャーは、筆触を置くときに抽象的に成立してしまう。そして、筆触が置かれた客体に対して、「筆触を置いた私」の主体は簡単に確保できないため、まるで暗闇にいるときに時間感覚が失われるような、不透明な身体性を帯びる。冒頭で幾何学や遠近法が絵画の潜在面だと言ったが、20世紀には、このような不可視な身体性をそうした面と重ね合わせることで、あたらしい試行が探究された。

林: ここで丁寧に考えなくてはいけない点がいくつかあって、まず一つには、印象派からセザンヌゴッホの主体性の問題であり、もう一つは、筆触にみられるような過剰な身体性の解放が20世紀になって起こってきたという問題である。
 20世紀には、アンリ・ミショーのオートマティズムのように無意識化の身体性の解放、身体的な実存ともいえるような試みがなされた。これはゴッホゴーギャンの主体と異なるもの。たとえば、表現主義は過剰な身体性の解放を試みたが、ここでは、描く主体は、ほとんど匿名的な身体性を帯びているといえる。意識下にあるミショーの制作においても、そのような例が見られる。

上田:トゥオンブリにおいては、眼よりも先に手が動くような、眼と手の分裂が起こっていた(主体の分裂)。盲目の手と言ってもいいだろう。
林:制作中の手の動きと、制作後に見る眼の分裂もある。

上田:こうした分裂をいかに処理するかは、画家にとって大きな問題であり、その一つの解決策として、アンリ・マティスブライス・マーデンのように長い筆を使用してずれを積極的に活用するか、中西夏之のように穂先を極端に柔らかくした筆を使用し、コントロール不能な状態の度合いを強めてマニエラ化するという方法が採られた。ウォーホル、リヒターは、アウラの喪失を引き受け、筆触を殺すことを無限定な「絵画の死」という形式と一体化させた。
 彫刻も制作する画家は、ピカソマティスドガジャコメッティなど。とりわけ、ジャコメッティの絵画からは、油絵というメディウムで塑像のモデリングをしてゆくような作業が読み取れる。彫刻というのは、人間の模造である人体を作り、作家自身の身体性を外側に移行することで、身体を客観的に見ることができるものである。

林:そのことは、最初に「作る人は見る人であり、見る人は作る人である。」と主張したことと関わるだろうか?「筆触が露わになる」ということは、この絵がどういう形でできていったのかということを身体的に追跡可能だということ。だから、セザンヌを見る経験はヤン・ファン・アイクを見る経験と明らかに異なっている。ロランバルトは、小説について「読み手として読むか、書き手として読むか」という問題を論じたが、セザンヌにおいては、描き手としての読み、すなわち作り手としての読みが近代以降の絵画において見る側に要請されているといえる。それは、彫刻家が人体を体の外につくり、それを自ら生きなおすということとどこか響きあうところがあると言えるのかもしれません。

上田:近代においては、筆触を目で追いながら鑑賞するように変化した。

林:また、個性の記号としての筆触は、システマティックであると同時に交換可能なものである。とりわけ、セザンヌの1870年代のタッチは、システムが露わになることによって、私のものでなくなることがある。
 たとえば、ゴーギャンの筆触が、画面の前面においては大きく、後ろにおいては小さなものになっているのに対して、セザンヌは画面全体に均一なタッチを置いた。セザンヌの筆触は、自律した世界となっているがシステムが明確なため、それらは交換可能になってしまっている。

追記)セザンヌについて(2009.5.25)

●構図に対する負荷

 セザンヌの構図は、妙にデフォルメしている。構図に負荷がかかっている。ゴッホのデッサンにおいても、絵が進むにつれ、構図がずれていくのだけれども、ずれに合わせて、生じた問題を解決してゆく。弁証的にズレをはらみながら少しずつ構築されてゆく。

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■上田和彦の作品、思考などについては、作家自身のサイトをご覧ください。
 http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/


■参考URL:

・「組立」のサイト http://d.hatena.ne.jp/eyck/20090326/p1

・レクチャーの様子はフォトグラファーズ・ギャラリーのブログで見られます。
   http://www.pg-web.net/news/?p=609

・このレクチャーについてのブログ記事も必読です。
  偽日記@はてな
   http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20090405 
  short hope
   http://d.hatena.ne.jp/kebabtaro/20090410/p1