『空薫』―よくある話(5月26日の日記)

○2009年5月26日
(他で書いた日記を転載します)

 体を冷やしたためにいつもの頭痛に悩まされた週末、どうしてもふと、大塚楠緒子の『空薫』(そらだき)が読みたくなった。
 夏目漱石と大塚保治(『吾輩は猫である迷亭のモデルであり、明晰な美学者)を繋ぐ蝶つがいのようなその作家は、漱石ゆずりの硬く緊張感のある文体で明治社交界の豪奢な女性たちの光と影を冷徹に描いていた。
 以下にその書き出しを引用。(主人公は23歳の文学青年です。)

「鏡の如く澄んだ水とて、若し蜘蛛程の小蟲が落ちたら直に波の輪が出来る、况(ま)してや若い女である、若い女の光彩(つや)ある衣紋に包んだ胸の内には男の知らぬ消息の隠れて居ると聴くものを、母と呼べとは苦しい宣告である、恋には幾人の掌(たなぞこ)をも握り得やうが慈愛の籠る母の懐は一つしかない、在ったものが亡はれたら、もう永久に亡はれたのである。
 平かな水の面を掻き乱されても、憧憬(あこがれ)の我花ならば散って浮く姿を愛(めづ)るよしもあれ、二十三歳の今日、今更何(なに)しに新しい母を要さう、然かも虚空から落つる蜘蛛は、糸を延ばして一寸二寸と近づいて、穏やかな水の面に今にも触れやうとして居る、若し触れたらば、何をも留めなかった水の面(おもて)は、一遍に様が変らう、面白い波紋が出来るかも知れぬが、或いは憂き襞が畳まれるかも知れぬ。」

 物語の縮図を、こうした視角イメージに喩えたときの巧みさは、明治文学ならでは、かもしれない。また彼女は、橋本雅邦や四条派の絵画を学んでおり、卓越した視覚の持ち主でもある。
 ストーリー自体は、結構、昼メロ好きの人にお勧めの感じだったり、勧善懲悪的な考え方を持ちながら、そのような筋書きにしないドライな部分を持っているところがあり、通俗化して読んでもいいし(←旧字体アレルギーがなければ)、真面目に読むのも可能な良作だと思う。

(ここからはネタばれ)

 ちょっとショックだったのは、酔っぱらったらついつい、お姫様を食いものにしてしまう(←本人談)おっさんが、そのために自殺した女性に対して、こんなの初めてだったからびっくり、意外!(他のお嬢さん方は泣き寝入りなのに、これだから神経質な女はよくない)とか何とかいいつつ、その後も忙しさにかまけて全く反省せずに同様のことを続けているところでした。男友達も食いものにしているその悪役のキャラの濃さ(いや、キャラと言ってはいけないか、罪深さか…)にびっくりしながらも、食いものにされているほうのおっさんに自分を重ねてしまうところも。
 こうしたあざとさへの気遣いは、女性ならでは(根源的なものではなく、割り当てられた職能からくる分別)だと思うし、私にとってちょっと付き合いきれない部分でもある。(自分のおっさんの部分が、気まずさのあまり、読むことを拒否する…「くだらない!」とか言って直視を拒絶するのだが、地に足の着いた私の場所でもある。)
 女性の筆で書かれているとわかった瞬間に「ヒステリック」とか「女性週刊誌的」としか読めなくなってしまいがちな、日常のダークな出来事を、無視できない程に卓越した描写へと昇華した筆力は、さすがとしか言いようがない。(大塚楠緒子本人によれば、自分の作品に具体的なモデルはおらず、むしろ、周囲にいないタイプを書いているということですが。) また「他人事のよう」と酷評されたクールな視点も、デリケートな事柄を描くための戦略性として評価できる。

○2009年12月6日追記

 マッチョで硬質なところのある表現は、好みに合うのだけれど、戦士者の数を数える時にはその未亡人や遺族のことを考えるように、ふっと意識を女性の側へ持っていく習慣をつけたほうがいいかもしれない。と考え直した。