【レクチャー報告】「組立」対話企画 上田和彦 × 林道郎〈筆触・イメージ・身体〉 後半

ブライス・マーデン―持続するストローク

 マーデンは、東洋と漢字の影響が強い作家で、漢字をモチーフに描いた。とりわけ、東洋の人が、筆順に沿って書を見るようなプロセスを追う見方は、印象派などの絵画の筆触を目で追ってゆく見方とパラレルなものである。
 また、マーデンの影響を受けているポロックによる絵画において、イリュージョンが一挙に立ち現われてくるのに対して、マーデンの絵画において、イリュージョンは方向性を持って立ち現われてくる。直線が長く描かれていると、見るほうは時間をかけて追ってしまう。マーデンは、このことに対して意識的な画家だった。

雪舟の筆触―サンプリング 
 雪舟は、中国の画家のように夏珪様に習熟していた。彼は書道における楷書・行書・草書のように、筆触を自由自在に使い分けられる。雪舟の時代には、一人の画家がマルティプルなシステムを自由に使いこなせるようになり、筆触を記号化してサンプリングしながら使い分けていた。日本にはそもそも、近代という形式がない。筆触は、かならず形式化して用いられているため、なまの痕跡として見られることはないのである。
 一方、デ・クーニングでは、筆触は実体化してしまっている。であるがゆえに、行き場のなくなった筆触が実体化している点が面白くない部分でもある。彼が面白いのは、絵の一部をトレースして、他の部分に移しているところである。デ・クーニングは、描いた自分の絵をトレーシングペーパーでトレースして、他のキャンバスにコラージュするような仕方で筆触を扱っている。直接的な筆触を使用しながら、筆触を反復する作業によって、絵画としてはアンビバレントな性質を得ている。

*近藤学による研究(林道郎による紹介)
 近藤学「プロセスの系譜学 ウィレム・デ・クーニングから出発して」(公開講座A-things, 2008年7月19日
*参考:以下の発表でも似た内容が話されていたように思います。(*塚崎による追加です)
 近藤学「ウィレム・デ・クーニングの『アーカイヴ』」
 研究発表パネルB「ネゴシエーションズ イメージとその外部」表象文化論学会設立準備大会、東京大学駒場キャンパス、2005年11月 http://www.repre.org/event/others/pre/event/pre/presentation02/
 また、水墨画没骨法では、輪郭を描かないで筆触によって形をつくっていく。これは、水彩画技法とつながるところ。没骨法や撥墨は異様に早くマニエラ化するため、つまらないものがおおいのに対して、セザンヌの筆触には、マニエラがなく一筆ごとに迷いが見られるために面白いものとなっている。

■イブ・クラインの「筆触」―身体性・記号性

 リキテンシュタインにおいては、筆触をイラストレーションとして描くことで、すべてを図化して記号化することで絵画の内と外両方描ける。また、無名の身体性を推し進めた作家として、マチューや篠原有司男がいた。
 イブ・クラインはそれらを踏まえたうえで、作家自身が画面の外にいて裸の女性の身体を筆として使って画面に痕跡を残す描き方を行う。他人の身体を使用してオーケストレーションをするイブ・クラインの身体性は、マティスの長い筆による身体性の間接的であること比較すると直接的なもの。物証的な、身体の痕跡としての「筆触」を使用した。
 クラインは、その色彩によって―これはインターナショナル・クラインブルーとして今でも売られているが―筆触が記号性・非実態性を得たという特徴がある。だからこそ、白髪と比較しても、現在でも見られるものとなっている。

■クラインの批評性

 クラインは、絵画の唯一性を信じている部分もあるし、信じていない部分もある。足元をすくうような部分があり、この点は、具体とかアンフォルメルの人たちと違うところ。具体の中では、金山明がクラインのような批評性を持っていて、おもちゃのトラックをリモコンで操作することによって筆触を作っていくような作品は、クラインと同様の戦略を使用したといえる。

■リヒター―ポスト表現主義時代の筆触
林道郎
 ポスト表現主義には筆触の直接性がなくなった。水墨画の筆触の形式化と比較してみると、近代以降の画家である私の筆触、あるいは無名の身体の表象としての筆触が、限界または足かせとして受け取られるようになったのが60年代であった。そこで、筆触は、システム化して捉えられたり、物質として、身体や私に回収されずに物質としてあり続けるようなあり方が生まれてきた。筆触をそうした方法で扱ったのが、リヒターであり、ライマンであった。