銅、ステンレス、木、手。

11月のある一日のこと。

 念願だった、鉄塊の運搬。それによる筋肉痛。
 金属の塊は人の体よりもわずかに、あるいはかなり重く、そして硬いために、思っていた以上に運ぼうとする人の指や足を破損させてしまう危険がある。運ばれる鉄片にとっては、木片は軽く柔らかな枕の感触であり、潤滑油のような役目を果たすもの、人は動力である。見ていたかたちと大きさのスケールは、解体されるにつれ、それらをかたちづくる素材の重量のスケールや重力の方向性との不思議なずれをあらわにしていった。(大きなものほど人=動力のスケールに合わせたユニットに解体できるようにつくってある。)丁寧に包んだ鉄片は、木箱におさめられ、あっけなく去って行った。あとには、筋肉痛が残った。

12月のある一時間。

 木、アルミニウム、鉄?など… 持ち上げることを通して自分の限界を感じる。ものとの関係を切実に感じ、筋力が足りないと感じながら、対象のウェイトがストンと腑に落ちる。形と空間と動きに資すること、ひとりでは出来ないこと。隅々まで気が通っていて、スマートに捌く仕方。息の合う仲間の動きを手短な言葉で指示し、数名の身体が同期する瞬間は非常に美しい。

78kg。

 その夜、テレビで柔道を観た。男子も女子も78kg。重さもルールもさほど変わらないというのに、その違いに非常に驚く。男性と女性は、動きもバランスも闘い方も、まったく違っている。骨と肉との関係が違うのだろうか。