日曜の予定

○「はな展 四季の花 幻想の華」2009.11.20(金)〜2010.1.13(水)

北海道立帯広美術館
Hokkaido Obihiro Museum of Art(Prefectural Museums of Hokkaido)
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-obimu/index1.html

展示リストはかなり錚々たるメンバーです。
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-obimu/index1.html

名前を知っていて、また見たいのは、下の方がたです。

蠣崎 波響 Kakyo Kakizaki
関口 雄揮 Yuki Sekiguchi
田辺 三重松 Miematsu Tanabe
野田 弘志 Hiroshi Noda
結城 素明 Somei Yuki
北岡 文雄 Fumio Kitaoka
栃内 忠男 Tadao Tochinai
大本 靖 Yasushi Omoto

木曜。

手探りながら、教えたことのないこと、まだあまり知らないことを教える準備、お手伝い。なのに今回は、なんだか楽しめそうな気がします。こういう感覚は、初めてかもしれない。(以前は、不確定な要素は嫌だった。)

土曜。

作家さんのお手伝いで、こどもに彫刻を教えました。中心に、尊敬できるいい作家さんがいて、ご紹介する立場からお手伝いするのが、私にとって素直なやり方かなと思いました。そして、もしかして、子供すきかも…(しかもヤンチャな子が好き)と思ったりしました。楽しかった!

水曜。

・ヒラマ画廊、チャリティー展。

高校で教えをうけた美術の先生の作品がお目当てで行ってきた。なんだかどの作品もよかった。絵画は、彫刻をしているひとらしく、確かなデッサン力でシルエットを捉えた馬や建築が、水の中に浮かんでいるような、不思議な浮遊感を孕みながら配置されているもの。彫刻は、木彫の抽象彫刻なのだけれど、動物のように引き締まった存在感のある脚部の結節部とは反対に、ゆるく傾いている上部がはかなげで、その均衡がまた面白い。もう一回見たい。
(どれも、買えばいいのに、と思うくらいのお値段だったのだけれども。…とはいえ、そんな気持ちで買っても大事にできないので縁がありそうなものを買うのがいいのかなと思っています。)

GALLERY HIRAMA:
  http://web.mac.com/akinorihirama/Gallery_HIRAMA/Welcome.html

Exhibition Info in this blog:
  http://d.hatena.ne.jp/tsukasakimiho/20091201

・山内壮夫 Yamauchi Takeo

ヒラマ画廊で頂いてきた美術ペン。運よく、古いものも混じっていて、109(2002年春号)を手に入れることができた。しかも、その号には柴橋伴夫氏による「山内壮夫論13−建築との協働(1)」が掲載されていた。山内壮夫については、興味が湧いてきたところだったので、機会があれば、この連載をまとめて読んでみたい。

 「美術ペン」Bijyutsu Pen書籍情報:"Bijyutsu Pen" is free-paper of art critic in Sapporo-city.
    http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN00147334

・回想。私のいま必要としていて手に入らないものをすべて持っているように見えていたひとが、私の困窮しているその部分に対して嫉妬を露わにするので、つい「そんなの誰だって、そう。私だけじゃない」と誤魔化してしまった。憐れみをうける情けなさをそのひとの憎しみが拭い去っていた。そこにある憎しみの感情だけが私を幸福に照らしだすように思えた。幸福と豊穣のうちに溺死してしまいそうな点において、私たちは似ていた。

・回想、マスオさんと沼ガールズ。鱒のように清水を求める発言に引っかかった。というのも、そのような年長者のまわりには、若い男女がひっきりなしに、鯰の様に泳ぐための教えを請いにやってきていたからだ。鱒と鯰の泳ぎを知ってなお、鱒の泳ぎを規範にするのは、品格だろう。にも拘らず、貧ゆえに鯰の泳ぎにしか目がいかず、いまだに危かしく進む。
 12月30日現在。気持ち悪いことを嫌う。やっぱり、あざとい色合いが出るような場面は、私も苦手のようだ。鮭子プロジェクトに回帰。

土曜。

・土曜、清澄白川。
足早に展覧会場に向かう道、呼ぶ声がする。何年も会っていなかったひとが笑顔で手を振っているのが見えた。前回は、芳名録にその名前を見かけるのみだったから、前よりも元気そうな顔が見られてよかった。映画を勉強し始めているというので、作品ができたら教えて、さようならと別れて反対方向へ歩きはじめた。

・展覧会場、人が多い。
ネトの作品が垂れ下がっているので、ごあいさつしにくい。いまどこに住んでいるのと聞かれると、急に照れ臭くなってしまった。(住所不定が板についてきたのだろうか、それに遠くに行っても卒業できない自分も恥ずかしい、とにかく)お元気そうなので嬉しい。次の日、ゆっくり作品を見た。いろいろこまごましたことを聞けなかったなと思った。なんでも恥ずかしがらずに聞けるやつになりたい。(と、小学校の高学年あたりから思っている)

・展覧会場、解説員。
展覧会場に、解説員の方がいてロスコやアンソニー・カロの作品についてのご説明を拝聴しました。作品を前にして説明するのはいいな。こういうの、やってみたいな。次の日は、レベッカ・ホルン展の解説も聞きましたが、それもおもしろかった。(こちらは人数が多くて、誘導が大変そうだった。)
調べてみると、ボランティア解説員だと、その美術館の募集体制によって、解説以外が大変そうな部分もあった。とくに、長くできて、スタッフ同士の交流の会やフォローが手厚いようなところは、どうも人づきあいが大変そうなのであった。かといって、長い人は採らないようなところだと、ノウハウが蓄積できないわけで…。折り合いが難しい。

水曜。

・物故(真新しい)。一度、物故作家に目が行くと一転、なかなか受け入れられなかった人の死が心やすい出来事に感じられてくる。手に取れなかった作品集をやっと開くことができそうだ。

・回想。磁器製の薄い透かし細工の器をガラスケースから両手でそっと持ち上げて床に置き、写真を撮影してからまた同じ場所に戻す。

・やっと、と思えば、もはや。与えてくれ、その先をゆくひとの背中も孤高に見えたので、小さな夢がもう叶っていると気づくまでに少し遅れてしまった。

火曜。

・遺品。そのひとがすでに死んでいるので、安らぎを感じる。初めから終わりまで見渡せ、その人生から歴史とのつながりをひも解いてゆける。そのひとを尊敬し、大切に思っていたひとの気持ちを指先に感じて、厳粛な感情を抱く。ただ与えられた不思議な縁に感謝している。こんな幸いは最後かもしれない。書き残せればと思うのだけれど、それは僭越な行為で、だいいち、私の言葉はもう枯れてしまったかもしれない。

・回想。ある老いた評論家がレクチャーをしている。若手の理論家が鋭い質問を投げかけたので、年上の評論家は少し躊躇する。その質問は、評論家自身がその若者の年ごろの時に年上の作家に抗して書いたものと同じフレーズだった。

・しわスパイラル。どうして、てんぱってピリピリしている時に限って、様々な人が面倒くさい用件を運びこんでくるのだろう、と私よりもさらに多忙そうな人の時間を15分ほど奪って愚痴る。先週、同じような件で悩む友人に(とはいえ、その人に持ちかけられた面倒というのは私にとっては非常に奇想天外な内容で…)「それはきっと悪いオーラが出てるんだよ」と返答したばかりなのだが。そうやって魔が差すので睡眠時間が減るのだよ。きっと諦めたい弱い心の自分が地雷を踏ませているんだ。