岡崎乾二郎展鑑賞日記

1.5月16日

 2004年から2007年あたりの岡崎乾二郎の絵画を私は見たことがなかったのだけれど、幸運なことに、5月からその時期を回顧する絵画展が続いている。南天子画廊での常設展では、2000年の72×90㎝(入って右の小部屋)、2003年あたり(?)の2点組、2004年の四谷での展示に近いタイプの作品、2005年の30号+150号2点組*1、2007年の91×73㎝、サムホールサイズなど、異なったタイプの絵画が一度で見られるセレクションになっていた。年代とタイプごとに、かなり違った特徴や関心を持っているので、驚いてしまった。セゾン美術館展以降の各作品での関心はどこにあり、どのように展開してきたのだろう?初めて見た2004年〜2005年の作品の凄さに、呆然とするばかり。

http://kenjirookazaki.com/#/en/1/7/
 
2.5月末、仙川、ドリップ

 東京アートミュージアムで始まった岡崎乾二郎展には昨日、行ってきた。

「Phirosophiae naturalis principia artificiosa-自然哲学としての芸術原理-」
 2009年1月17日〜6月21日(東京アートミュージアム・連続個展)
 第6回 5月28日(木)-6月21日(日)岡粼乾二郎


 私は絵具フェチなのか、とくに初めて見るタイプの岡崎氏の絵画ではタッチやディティールの美しさばかり愛でてしまって、画面内の配置デザインや作品名についてはいまだに手つかず。タッチだけで、いわば中身のぎっしり詰まった宝箱を与えられた子供のような気分なのだ。今回も同様で、あまり見えていない…。読み取った造形要素が次に見えるものを呼ぶことで次が見えてくるとしたら、一番表層の、手前の部分で立ち止まっているのかもしれない。それぞれの場にストロークイメージが出来あがるまでにどの層でどのような身振りが振り付けられていたのかを見たい、なんて思っていたけれど一つも追うこともできずに、ストロークが目の前に現れるたびに驚いては、その動きの切れ味に狂喜してしまう。

 東京アートミュージアムの展示で印象的だったのは、水色をした滴りが散らばっている作品。これは2階に上がる階段をのぼるときに左頭上から出て来るように展示されていて、登りきるまであと数段のところで作品の下辺正面に来てしまう。階段の手すりがあるので引きの距離がとれないまま頭上の画面を見上げると、横長画面に包まれるように感じる。画面の中央に水平に降り注いだガラスのように透明な絵の具のドリッピングは、無重力で私の頭上に浮いているように見えた。ドリッピング的な浮遊感もあるのだけれど、絵の具自体が、キャンバスからわずかに浮いてみえるように、透明ジェルで濃淡アクアカラーの2層構造が作ってある。ドリップストロークのガラス様の質感もきれいだ。たとえば画面中央や様々な場所に散らばった瓢箪型の滴りを覗きこむと、雫の中を覗いたつもりなのにその中にも雫が落ちていることを発見してしまうような、不思議な層構造にひき込まれた。

3.6月初旬―ストローク

 岡崎氏の作品に使用されるストロークイメージ*2には、ドリップストローク*3、ナイフストローク*4、ブラッシュストローク*5など絵画に出てくる様々なものがある。とりわけナイフで描けないような大きなサイズのナイフストロークには、ナイフストロークの実在イメージあるいはアイディアを、ナイフに限らず筆なども使用して描写・模倣したもののもあれば、本当にナイフで絵の具を押しのばすことによってつくられた滑らかな平面も存在する。
卓越した絵肌づくりの技術をパリで学んだ洋画家 岡鹿之助は、『油絵のマティエール』の中でブラッシュストロークと比較した際のナイフストロークの輝きを次のように分析している。 

ナイフが筆よりも優れている点をあげるならば、ナイフによって得たトーン(調子)は、筆によるものよりも、はるかに新鮮であることだ。…このことは、ペインティングナイフという滑かな道具が、絵具を押しのばして、絵具の表面を滑らかにすることに起因する。滑かな表面には、障害物がないのだから、光が充分に反射する。これが新鮮さの原因。

岡鹿之助『油絵のマティエール』美術出版社、1953年)*6

 面白いのは絵の具をナイフで押しのばす行為によって、滑らかな平面と盛り上がった量塊という二つの部分で成り立つナイフストロークが生じることだ。ナイフストロークとドリップストロークは、ともに艶めく平滑面で画面を彩るものだが、平面とバリ状量塊によるレリーフ的な両義性を持っている点でドリップストロークは面白く、また平面部の平面性によってブラッシュストロークよりもナイフストロークのほうが鮮やかだ。

4.6月20日―顔だった。/ブラッシュストロークに関する夢想、皮膜

 また東京アートミュージアムで絵を見る。今回、登場が多かった透明ジェルメディウムのブラッシュストロークとそれらの継ぎ目ばかり見た。こういう絵だったかな…と思う。
 薄い色の筆触を配置した一層目をベースコートとすると、その中に溶かすように不透明の濃色を数手加えることでトップコートがつくられていて、画面から絵の具自体が浮きながら同時に押さえつけられている即物的な押し引きの感触がある。薄色の溶媒に濃色を溶かしてゆく作業は水彩画を描くのに近い。しかし、アクリルジェル製のブラッシュストロークでは、絵具どうしが溶け合わないので、水の上に油が浮かぶようにトップコートベースコートのジェルメディウムの中に浮かんでいる。
そしてまた、版のように記号性をもって置かれたモチーフの多くは、トップコートに存在している。何に到達すれば作画が完成するかと考えると、トップコートの部分に意味あるイメージが根をおろしているのは必然で、トップ/イメージの背後を支えるベースコートの構造/プロセスの重要性が増してくる。
 キャンバスと絵具とを隔てる絶縁体としての下塗りが不在で、ストロークが飛躍的に生じていた岡崎氏の「絵画」(レリーフ)だけれども、絶縁体をベースコートに含み込むことで「下地がない」という飛躍のイリュージョンが強化されている。また、それは台座の木枠とキャンバス本体で組まれたユニット構造を反復する。台座としての木枠と、絵画本体であり反復して重なりキャンバスを支える木枠によって織りなされる額縁抜きの関係は、ベースコートとしてのジェルメディウムトップコートとしての不透明絵具によって織りなされる下地抜きの関係と並行している。
木枠が額縁の代わりをなすのは、壁面という基底との絶縁(現代絵画は観客からは絶縁されなくてよく、壁面から絶縁される)であり、壁からの浮きの高さ、それで十分。同様に、布目が埋まるならば下地は描かれた絵の具の中に含み込まれてもよいという決断が、飛躍を魅力的な所作にするのだろう。
基本的には、一つのストロークユニットにつき、重ねられる手数があまり多くはないので、ずらしを加えて繋げながら一つずつ並置するように色が置かれてゆくステップは変わらない。透明ジェルで筋目のついたブラッシュストロークでは、並置よりも2層構造のウェイトが大きくなっている。

 そんなことを夢想しながらストロークユニットごとに一手二手と数えている姿が可笑しかったのか、会場に居合わせた年長の美術家の方に声をおかけいただいた。そして絵のことをお教えいただく。私は、絵具にばかり目を奪われていたために、何が描かれているのかというイメージを見るのをすっかり失念していた、というより、顔だと知っていながら自力で見ることすらできなくなっていたのだ。気を取り直して、他の方の視線に付き添われるように一双の画面に幾双もあるはずのストロークイメージを探すと、あちらだ、こちらだ、と見えてくる目線を取り戻すことができて、すっかり楽しくなる。顔の絵が好きだ、と奥の絵をお薦めいただいて見てみると、なるほど「あの顔」。たぶんあの子だ。驚き。小さいほうに「あの顔」の子がギュギュギュと詰まって、いっぱいいる!あると思ってみれば、大きいほうにもいっぱいいる。なんとなくあの顔だとは知っていたのだけれど、こんなに沢山いるとは…。なんだ、2005年の大小2枚組はそういう絵だったんですか、可愛い。

5. 6月24日

 ふと、岡崎氏のドリップストロークを見ていて思うのだけれど、ドリップストロークを生のまま使うことに対する警戒感というか、ドリップストローク×おしゃれ要素というので心惹かれるものがいくつかあり、今後、観察してゆこうと思う。ドリップって、生のままではそんなにダサイかなあ…。
 気がついたテーマをタグにして、過去の作品構造を可塑的に見てゆけるのは楽しい…双眼鏡を覗きながら歩くような錯誤の危険性が常にあるようだが。
 ストロークについてはまた追記するかもしれません。

*1:これに近いタイプでウェブに掲載されている作品では、およそ160号P(aysage)近い大作と30号F(igure)ほどの寸法の作品が2点組になっている。http://kenjirookazaki.com/#/en/1/7/今2008年の作品があったか、なかったか思い出せず…書いてあるものは確実にあったものです

*2:イメージとしてのストロークを以下、このように呼ばせていただきます

*3:絵具を滴らせることによって得られる滴状の線を以下、このように呼ばせていただきます

*4:ナイフで塗ることによって得られるタッチ

*5:筆による筆あと

*6:時代が下ると、キャンバスと絵具の既製品が手に入りやすくなるため、絵具とキャンバスの制作技術論は収束したのではないだろうか。絵画が100年もつように制作する岡鹿之助の気遣いは、画家が美術史に残りパトロンが資産運用するために有効かもしれないという意味で洋画的な社会性を持っている。